有田焼は、今から約400年前に誕生した、日本で最古の磁器です。
江戸時代、芸術品として世界中で人気を博した器である一方、現代まで日本人の食卓に深く根付いている日常の器でもあります。
有田焼は、どのように世界的に有名になり、日本の食卓に浸透していったのか?日本を代表する焼き物の歴史を辿っていきましょう。
目次
簡単解説!有田焼とは?
李参平は、豊臣秀吉の朝鮮出兵で日本に連れて来られた朝鮮人の一人です。李氏が現在の佐賀県有田町の泉山に磁鉱を見つけ、磁器を焼くことに成功したのが、有田焼の始まりです。
有田焼は、陶器ではなく磁器です。陶器が粘土である陶土を原料にするのに対し、磁器には石である陶石を使います。見た目は白く、陶器よりも高温で焼くため硬い仕上がりです。
有田焼の大きな特徴は2つ。芸術的な絵付けと、美しい純白の素地にあります。
絵付けにおいては、藍色のみの染付から始まり、いくつもの色を使った色絵、金彩をふんだんに使った豪華絢爛な金襴手まで、時代とともに有田焼ならではの技術が発展していきました。
純白の素地は、有田の陶工たちの努力により完成したものであり、この白色が、有田焼のきめ細やかな絵付けをより一層際立たせています。
様式で辿る、有田焼の変遷
江戸時代の初め以降、有田焼は、オランダの東インド会社による海外輸出が盛んになっていきます。
輸出にあたり、海外需要に合わせた様々な技術が要求され、それに貪欲に応えていくことで、有田焼独自の技術が飛躍的に発展したのです。
その変遷を、技法や様式ごとに詳しく見ていきましょう。
染付
白の素地に藍色で描かれる絵柄には、水墨画のような趣があります。写真の「山水図」は、真ん中の見込みの部分に景色を描いたものです。
山水図はもともと中国で発展していた様式であることから、当初は、中国の磁気などを真似て絵柄をつけていたことが窺えます。
正面から見ると芙蓉という花に見えることからこの名前がついています。こちらも中国の様式です。
色絵
色絵は、様々な様式に発展し、世界中へ輸出されました。
また、色絵の誕生は国内にも大きな影響を及ぼします。高い絵付け技術は、その後全国へ普及し、日本の器技術を向上させていくのです。
柿右衛門様式
柿右衛門は、この純白の素地に、赤色を特徴的に使った色絵が描かれていますが、特筆すべきは、その余白の多さです。
余白が多いことで、純白がより美しく際立っており、明るく柔らかい印象を与えます。
絵柄は、中国を手本にしたものや日本オリジナルのもの、西洋風のものなど多岐にわたります。
花鳥文は柿右衛門によく見られる絵柄です。余白が絵柄の愛らしさを際立たせていますね。
柿右衛門様式は、海外でも絶賛され、ドイツのマイセン窯やイギリスのチェルシー窯なども模倣しているそうです。
古伊万里様式
ヨーロッパに多く輸出された古伊万里様式は、王侯貴族から好まれ、宮殿などにも飾られたと言われています。
染付から始まり、日本独自の発展を遂げたこれまでの有田焼技術の集大成と言えるかもしれませんね。
鍋島様式
鍋島様式には、染付の「藍鍋島」、染付に上絵をつけた「色鍋島」、白磁ではなく青磁の「鍋島青磁」などがあります。
江戸時代が終わり、廃藩置県が行われると、鍋島の御用窯という立場も終わりを迎えてしまいますが、そこを引き継いだのが「今右衛門」です。
代々、色鍋島の絵付けをしていた今泉今右衛門家。明治時代に入っても江戸時代の技法を守り、また、新たな技法も取り入れ、鍋島を発展させていきました。
昭和時代に人間国宝の認定を受けた13代今右衛門は、呉須を霧吹きで吹き付ける「吹墨」や、呉須ではなくグレーの薄墨を吹き付けた「薄墨」という技法を確立したことで有名です。
古九谷様式
元々は江戸時代に久谷で焼かれていたと考えられていたため、「古九谷」と名付けられていましたが、後になって、実は有田で焼かれていたのでは?という説が浮上してきます。
写真の器は、古九谷のような絵柄ですが、有田で発見されたものです。
古九谷が実際はどちら発祥のものなのか、まだはっきりと結論が出たわけではないようですが、現在では、産地に関わらず、色絵のスタイルを指して「古九谷様式」という言葉が使われることもあります。
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古伊万里の定義
江戸時代は、有田一帯で焼かれた磁器のことを「伊万里」と呼んでいました。これは、出荷されていたのが伊万里港であることに由来しています。
消費先でも、出荷港にちなんで名前がつけられていたため、海外でも「IMARI」の名前が浸透したのです。
しかし、明治時代になり、船での出荷から鉄道での出荷がメインとなったため、次第に焼き物は「有田焼」など、産地の名前で呼ばれるようになっていきます。
このことから、江戸時代に有田などで作られ、伊万里港から出荷されていたものを総称して「古伊万里」と呼び、区別するようになったのです。
現在「伊万里焼」と呼ばれているものは、その名の通り、伊万里市で焼かれたものを指します。
ちなみに、前述の「古伊万里様式」は、様式の名称であるので、必ずしも「古伊万里」であるとは限りません。
どこかできっと見ている、日本の食卓に根付く有田焼
すると、身近な器ではないはずなのに、不思議とどこかで見たことがあるような、なぜか懐かしいような、ノスタルジックな気持ちが。
そういえば昔、親戚の家に集まると、染付の取り皿、赤や紺で細かい柄が描かれた鉢や大皿、よく出てきたな。
私の中で、有田焼というと、古伊万里や柿右衛門など、芸術的でお高めな焼き物のイメージが先行していたわけですが、実は幼い頃からかなり身近なところにあったものなのです。ただ、それを有田焼と認識していなかっただけ。
当たり前に使われているものにこそ、歴史や文化が宿っている。有田焼は、芸術的な側面もありつつ、日本の食卓にしっかり根付いている器でもあるのです。
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